職場の50代ぐらいのお姉さまが「良し悪し」のことを「よしわるし」と言っているのを聞いて、それって「よしあし」ちゃうんかなと思った。私は今までずっと「よしあし」だと思っていた。でも前の職場の先輩も「よしわるし」と発音していたのでそういう言葉もあるのかなあ。知らんけど。
良いとか悪いとか、誰がどう決めてるんだろうってぐるぐる考えてた。なにが良くてなにが悪いのか。そもそも良いとされてることってほんとに良いのか。良いって、どういう状態なんだろうか。さすがに疑問がちょっと漠然としすぎているけれど。今日ラークさんと話していて、なんかそういうことをずっと考えていた。
ラークさんと私はまったく違った環境で育ってきたっぽい。本人の意思でどうにもできないことについて言及するのは最低だと思うけど、ラークさんの率直な印象は「育ちの悪い人だなあ」という感じだった。座るときに足を組んだり、口を開けて大きな声で笑ったり、言葉使いが汚なかったり、ヘビースモーカーだったり。子どものころは団地暮らしで、高校のときには酒も煙草もギャンブルも覚えていたと。失礼ながら私の知らない世界の話で、正直に言えば品がないなあ、と。
けど、それがなんだ?とも思った。ラークさんは「育ちが悪い」かもしれないけど、だからと言って人間として悪だとは感じなかった。まあまだ付き合い始めで相手のことをよく知らないだけの可能性もあるが、今日一緒に過ごして食事や会話をするなかで、根っこがとても真っ直ぐな人に見えた。そんなことよりも、うわべの立ち居振る舞いだけを受けて相手を「育ちが悪い」などと判断してしまう私は悪くないのか。それってとても傲慢な態度じゃないか。
私は子どものころに両親や世間から押しつけられた「良いこと」をずっと信じて、頑なに守って生きてきたほうだ。けど、それが正しかったのかどうかもうよく分からなくなった。今になって騙されていたのかもしれないという気さえしている。すべては都合よく私を操るための欺瞞だったのかもしれない。
それとも、今は少し弱っているだけなのかなあ。「良くあろうとすること」はとても疲れるから。世の中がどんどん「悪いほう」へ流れていくなかで、自分の選択を貫くのは地味だし孤独で苦しいもの。けど、最終的には自分の信じたいものを信じるしかないよな。他人が私の人生の責任を取ってくれるわけじゃないしね。