生活を泳ぐ。

ADHDとかASDとか。人生はフィクションです。

ずっと「にわか」

ほんとうに好きなら詳しくなるはずとか、つらいことがあってもずっと続けられるはずとか、そういう幻想に囚われている気がする。

そのせいでいろんなものを好きと言えなくて、もしかしたら人生のいろんな場面で損してるのかあとぼんやり思う。

でも自分がしっかり好きなものに対して他人が同じ熱量を持っていなくて話が噛み合わないことにがっかりした経験が私にもあって、だからこそ軽率に「好き」を表明することに抵抗がある。

好きに上も下もないと分かってはいるけれど。なかなか難しい。

 

たとえば音楽のこと。

私にも好きなアーティストが何組かいるけれど、すべての作品が好きなわけじゃないし、インタビューなんかを見て自分とは考え方が違うなと思うことも当然ある。

経済的な理由でCDは頻繁に買わないし、聴覚過敏のせいでライブにもそんなに行けない。たまに行ってもグッズをいっぱい買うわけでもない。

アーティストのビジュアルにも興味はないし、そもそも活動のすべてを追おうとも思っていない。

だからSNSで熱心なファンが本人の一言一句に狂喜乱舞してたり、ファンアート描いたり、歌詞の考察をしたり、まるで神かのように崇めてすべてを肯定していたりするのを見ると、なんだか引いてしまう。

熱心ですごいなあと思うと同時に、ちょっと気持ち悪く感じるしうんざりもしてしまう(決してそういう人たちを否定しているわけではなく、私個人の感覚の話です)。

 

私は一事が万事そんな調子なので、胸をはって「好き」と言えることがない。

(前にもそんな記事を書いたなあと今になって思い出した。)

ずっと「にわか」でいることは許されないんだろうか、って思う。

緩く穏やかになにかを好きでいて、思い出したときに少しだけやるような趣味じゃだめなんだろうか。

私は広く浅くいろんなことに興味を持って、ほんの少しだけ齧って、よく分からんけど好きかもぐらいの状態を維持することが多い。それ以上知ろうとすると面倒くさくなって興味を失ってしまうけど、あんまり分からないけど楽しいぐらいの感じなら何年も好きでいられる。

その状態が悪いことだと私は思わないのだけど、「にわか」って言葉で揶揄されるように、熱心なファンからすればおもしろくない存在なのだなあと思うと悲しい。

私はなにに関してもずっと「にわか」状態である。

 

そういえば人間関係も同じかもしれない。

相手に深入りしない状態だとわりと良好なまま関係が続けられる。仕事の関係とか。

でも親しくなり始めていろいろ知っていくとやっぱり興味を失ってしまう。

まあほんとうに相手を好きじゃないだけ、と言われたらそれまでかもしれないけど、私としてはそこそこ好きなつもりなのだ。でないと親しくなろうと思わないから。

でもやっぱり、それじゃだめなのかなあ。

なにかひとつ、誰かひとり、心から好きと思えるような存在がないのは人として欠落しているんだろうか。

人生損している、と言われるとそんな気がしてしまうから悲しい。

誰になにを言われても自分はこうだ、と思える強さがほしい。

 

人それぞれとか言うわりに、実際は同調を求められるから社会ってこわい。

たとえば街を歩いていて偶然聞いた知らない鳥の鳴き声をいいなあって思うくらいの、そういうちいさな感情を好きって名づけたらだめなのかなあ。